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足柄 (重巡洋艦) : ウィキペディア日本語版
足柄 (重巡洋艦)[あしがら]

足柄(あしがら)は、日本海軍重巡洋艦妙高型の3番艦〔大正15年11月29日付 内令第238号、昭和3年11月7日付 内令第313号。〕〔#S19-11-30内令提要追録原稿/第13類 艦船(1)画像2、艦底類別等級表。「|軍艦|巡洋艦|一等|妙高型|妙高、那智、足柄、羽黒|」。書類上の公式分類は妙高型の3番艦。〕。川崎重工業神戸造船所にて建造。艦名は神奈川県箱根足柄山に因んで命名された。なお、戦後この名称は海上自衛隊あたご型護衛艦の2番艦「あしがら」に受け継がれている。
1937年ジョージ6世戴冠記念観艦式の際には招待艦としてイギリスへ派遣され、「飢えた狼」というニックネームをつけられた〔#足柄青春海戦記206頁〕。
== 艦歴 ==
足柄は1929年(昭和4年)8月20日神戸川崎造船所で竣工した。1935年(昭和10年)4月7日の標柱間速力試験では排水量13,000tで実測35.6ノットを発揮した〔「3教練運転関係書類の件5.5.11(1)」pp.31、36〕。しかし9月14日の演習中に足柄の2番砲塔で事故が発生し、13名が死亡した。1937年(昭和12年)にはイギリスに派遣され、5月20日のジョージ6世戴冠記念観艦式に参加する。その後、ドイツのキール軍港に寄港しつつ帰路についた。佐世保軍港で整備したのち10月より東南アジア方面に進出して活動した〔#足柄青春海戦記210-211頁〕。12月11日、第四艦隊旗艦(司令官:豊田副武海軍中将)として台湾周辺海域で行動中、台湾東南洋上の火燃島に座礁したアメリカの豪華客船プレジデントフーバー号の救援に赴く〔#続・海軍くろしお81頁〕。足柄の乗組員はアメリカ駆逐艦が到着するまで火燃島に上陸したアメリカ客船乗客を保護した〔#続・海軍くろしお83-84頁〕。1941年(昭和16年)初頭より仏印進駐を支援し、9月23日に佐世保へ帰還した〔#足柄青春海戦記212頁〕。足柄は第三艦隊第十六戦隊旗艦となり、10月10日には高橋伊望中将が乗艦している〔#足柄青春海戦記219頁〕。11月29日南方へ出撃、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦後は12月のフィリピン侵攻に参加した。12月10日には米軍機の編隊(5機編成)の空襲を受ける。米軍機は高度6000mから足柄に向けて爆弾を投下、足柄は直ちに高角砲にて応戦した。結果、爆弾は足柄艦尾50m付近に着弾したため大事には至らなかった。この様子を足柄を旗艦とする第十六戦隊を護衛していた駆逐艦朝風の乗員である佐野直一海軍三等兵曹
は自著にて以下のように回想している。「(中略)足柄は直ちに高角砲にて射撃を始めたる時は敵機は爆弾投下せしなり。爆弾は足柄艦尾五十米の近くに投下大音響と共に山の如き物凄き水煙を上げたり。全く敵ながら六千米の高度より五十米離れただけだった。もしも命中せば足柄も海中の底深く沈んでいったであろうと思った時爆撃の物凄さを沁々と味わう事が出来た。敵機は高角砲に驚かされて一目散に飛去れり。敵機は米のダグラス大型戦闘機であった。」

1942年(昭和17年)3月1日のスラバヤ沖海戦では、足柄は姉妹艦3隻と共にイギリス海軍の重巡洋艦エクセター、駆逐艦エンカウンターポープを共同で撃沈した。戦闘終結後、高橋第三艦隊司令長官の命令により連合軍将兵の救助活動を行う〔#足柄青春海戦記236-237頁〕。3月3日には高角砲にて連合軍潜水艦の撃沈を記録した〔#足柄青春海戦記238頁〕。その後第2南遣艦隊旗艦(第十六戦隊)となり、シンガポール方面で活動する。足柄は東南アジア各地の視察・訪問・兵員輸送・巡航・警戒任務に従事、東奔西走した〔#足柄青春海戦記248頁〕。一方、ソロモン諸島に比べ落ち着いた戦線を担当していたことから、足柄が旗艦を務める第十六戦隊を「留守部隊」と自嘲する乗組員もいた〔#海軍予備士官98頁〕。
1944年(昭和19年)2月25日に第五艦隊第二十一戦隊(青葉、足柄、鬼怒敷波浦波天霧)所属となる〔#海軍予備士官130頁〕。3月29日に佐世保入港後、4月2日に大湊入港〔#足柄青春海戦記277頁〕。アリューシャン方面で警備につく。6月上旬、マリアナ沖海戦で日本海軍は大敗した。神重徳連合艦隊参謀は戦艦山城、巡洋艦那智、足柄、多摩木曽阿武隈等の第五艦隊によるサイパン島突入作戦を発案、アメリカ軍に対し陸上砲撃をおこなう計画を提案した〔#海軍予備士官146頁〕。6月21日、横須賀に入港して作戦準備をおこなうが、実行前に作戦は中止となった〔#海軍予備士官147頁〕。8月、に移動。同月、第五艦隊と第12航空艦隊北東方面艦隊が編成される。10月、台湾沖航空戦で日本軍はアメリカ艦隊に大損害を与えたと誤認。第二十一戦隊は残敵掃討に向かうが、戦闘はなく帰還した。
1944年10月のレイテ沖海戦に足柄は志摩艦隊所属で参加した。日本海軍は大敗し、前任が足柄の艦長であった阪匡身が艦長として座していた戦艦扶桑も、足柄の傍で山城と共に沈んでいる〔#足柄青春海戦記275-276頁〕。レイテ沖海戦後、第二十一戦隊は解隊された。12月5日、足柄の所属する第五艦隊が南西方面艦隊に転属となった。

12月、足柄はフィリピンミンドロ島に上陸したアメリカ軍への攻撃作戦(礼号作戦)に参加する。12月24日、作戦の指揮を執る第二水雷戦隊司令官木村昌福少将座乗の駆逐艦や軽巡洋艦大淀などと共にカムラン湾から出撃した。12月26日、B-25爆撃機の投下した500ポンド爆弾1発が命中(B-25が体当たりしたとも)。火災が発生したが酸素魚雷に誘爆することなく消火に成功し、マンガリン湾に突入した。湾内の停泊した輸送船や上陸地点の物資集積所に向けて砲撃を開始すると、約20分間に渡り砲撃を行い2月28日にカムラン湾に帰投した。
1945年(昭和20年)2月5日に南方に分断された残存艦艇で第十方面艦隊が編成され、足柄はそこに属する第五戦隊の所属となった。
1945年6月4日、足柄は駆逐艦神風を伴ってシンガポールを出港、翌日バタビアに到着し、陸軍の兵員約1600名や物資を乗せ6月7日にシンガポールに向け出港した。神風は別行動をとっており、足柄は単艦で航行していた。6月8日12時15分頃、バンカ海峡北側入り口で足柄は神風と合流しようとしていた〔#証言神風p.289〕。その時、イギリス海軍潜水艦トレンチャントが発射した魚雷8本の内4本が足柄の右舷に命中した。トレンチャントはさらに後部発射管から2本の魚雷を発射し、1本が命中した。足柄は12時37分に転覆し、艦尾から没した。神風は足柄の艦長の三浦速雄大佐を含む乗員853名と陸兵400名を救助した〔#証言神風p.290〕。
ペナン沖海戦で沈没した第五戦隊のもう1隻の姉妹艦の羽黒が6月20日に除籍されると、第五戦隊は解隊された。
終戦から5日後の1945年8月20日、足柄は除籍された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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